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対象者 ★☆☆ はじめてヴェーダ、ヴェーダーンタの教えに触れる方におすすめです。


『バガヴァッド・ギーター』や『ヨーガ・スートラ』といったヨーガの教えの土台である聖典「ヴェーダ」の教えについて、初めて学ばれる方向けのお話会を開催します。初回となる今回は、『プラサーダ』という小冊子を使って、ヴェーダの宇宙観において最も大切な「イーシュワラ」について学んでみます。

しなければならない事としたい事が、本当はひとつだとしたらどうでしょう? その2つをひとつにしてくれる言葉、プラサーダ。ご機嫌な言葉。
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プラサーダという言葉があります。
この言葉は、生き方がヨーガに変わるためのキーワードです。つまり、ストレスから自由でご機嫌な生き方のための大切なキーワードなのです。このプラサーダの文字通りの意味は、「ご機嫌、朗らか」という意味なのですが、この意味をヴェーダの文化を持つインドの人々は、とてもとても大事な意味で使います。それが何かを見てみましょう。
【『プラサーダ』スワミ チェータナーナンダ サラスヴァティ著】

初めての方向けのお話会ですが、すでにヴェーダ、ヴェーダーンタの勉強会にご参加頂いている方もお申込み頂けます。『プラサーダ』は、やさしい言葉で書かれた冊子ですので、小学校高学年程度のお子様から、聞いて頂けると思います。よろしければ親子で是非、ご参加ください。

・ヴェーダの教え、文化に興味のある方
・ヴェーダーンタをこれから学びたい方、学ばれている方
・ヨーガの教えの理解を深めたい方
・イーシュワラとは何か、理解を深めたい方

などにおすすめの勉強会です。
アーサナヨガや座学クラスの受講経験の有無に関わらず、どなたでもご参加頂けます。

【開催概要】
日程:
2026年1月4日(日)、12日(月祝)の全2回
※参加できない回がある場合や、聞き逃した際は、後日ビデオをご覧頂けます。

時間:午前7:00〜8:00
場所:Zoom
受講費:ドネーション
※ドネーションについては、こちらをご覧ください。

進行役:sami

お申込み、ご質問などは下記までメールにてお知らせください。

y.sagami84⭐︎gmail.com
(⭐︎を@に替えてお送りください。)

お申込みの際は、

・氏名 
・Gmailアドレス(Googleドライブ共有用)

をご明記ください。

この勉強会を通して、ヴェーダの教えがより身近なものとなり、ヨーガの実践が意味深いものとなりますように。

対象者 ★☆☆~★★☆ はじめてヴェーダ、ヴェーダーンタの教えに触れる方~学び始めた方におすすめです。


2026年1月~、スワミ ダヤーナンダジの解説を元に、『バガヴァッド・ギーター』13章で語られる「20の価値」の勉強会を開催します。

『バガヴァッド・ギーター』は、ブランマ・ヴィッデャー(ブランマンの知識)、つまり「私とは何か?」「世界とは何か?」の知識を教える、ヴェーダーンタの重要な聖典であり、その知識を理解するための考えの準備であるヨーガの生き方を教える聖典(ヨーガ・シャーストラ)でもあります。

ギーター13章7~11番の詩節では、アルジュナの質問に答える形で。クリシュナ神によって、知識の探究者が身に付けるべき資質が「20の価値(ニャーナ)」として語られます。

ニャーナ(価値)と呼ばれる態度や考え方は、ヴェーダーンタの生徒向けに明細に言われていますが、すべての人に関係があります。鋭い洞察力と考えの働きに対する深い理解を反映して、ヴェーダーンタの準備として説明されている精神的な姿勢は、美しく客観的な道具であり、静かで注意深く、効果的で、あらゆる研究や追求の準備ができている考えを構成します。内面の葛藤によって分裂せず、外面の逆境によって動揺しないそのような考えは、ヴェーダーンタの学習だけでなく日常生活にも最善の準備となります。私たちの活動が何であれ、価値は生活の質を高めます。これらの価値が個人的な、同質化された規範であるとき、私たちの日常生活は効率性と快活さ、さらには輝きを得ます。
"The Valu of Valus" - エピローグより引用

スワミ ダヤーナンダジがこのように話されているように、これらの価値はヴェーダーンタの知識を学ぶ準備として話されてはいますが、どんな人にとっても、人生をより豊かで生き生きとしたものにするための優れた教えとして働きます。

ここで教えられる価値はすべて、ヴェーダの教えに基づいたものであり、つまり人類普遍の価値です。アヒムサー(傷つけないこと)、シャウチャ(清浄さ)など『ヨーガ・スートラ』で教えられるヤマ、ニヤマと重複するものもあり、八支則のヨーガを実践されている方や、ヨーガ哲学を学ばれている方にとっても学びやすい話題だと思います。また、タットヴァ・ボーダを学ばれている方は、アディカーリンの話題とも関連する教えとなります。

すでにヴェーダーンタの勉強会にご参加頂いている方はもちろん、初めての方でもお申込み頂けます。

・ヴェーダーンタを学ばれている方、これから学びたい方
・ヨーガの教えの理解を深めたい方
・ヤマ、ニヤマなど日常生活の規範となる価値をより深く学びたい方
・ヴェーダの教え、文化に興味のある方

などにおすすめの勉強会です。
アーサナヨガや座学クラスの受講経験の有無に関わらず、どなたでもご参加頂けます。

【開催概要】
日程:
2026年1月11日(日)以降、原則毎月第2・4日曜日、全20回、10ヵ月程度の期間での開催を予定
※進行によって回数は前後する可能性があります。
※参加できない回がある場合や、聞き逃した際は、後日ビデオをご覧頂けます。欠席の際のご連絡は不要です。

時間:午前6:30〜7:30
場所:Zoom
受講費:ドネーション
※ドネーションについては、こちらをご覧ください。

進行役:sami

お申込み、ご質問などは下記までメールにてお知らせください。

y.sagami84⭐︎gmail.com
(⭐︎を@に替えてお送りください。)

お申込みの際は、

・氏名 
・Gmailアドレス(連絡先 兼 Googleドライブ共有用)

をご明記ください。

この勉強会を通して、バガヴァッド・ギーターの教えがより身近なものとなり、本格的に聖典を学ぶための考えの成熟、価値の定着がありますように。

聖典ヴェーダの結論部分が、ヴェーダの終わり(アンタ)、ヴェーダーンタと呼ばれます。
この部分は、別名『ウパニシャッド』とも呼ばれます。

前半のヴェーダが『カルマ・カーンダ(行いの章)』と呼ばれるのに対して、後半のヴェーダ、つまりヴェーダーンタは『ニャーナ・カーンダ(知識の章)』と呼ばれます。
前半・後半とは言いますが、ヴェーダの99%は前半のカルマ・カーンダ、つまり「行いと行いの結果」について教えています。
ヴェーダ全体の1%にも満たない、その部分がヴェーダーンタ(ウパニシャッド)です。

では、ヴェーダーンタの教える「知識」とは何でしょうか?
それは「モークシャの知識(ブランマンの知識)」です。

モークシャとは人間の究極のゴールであり、「解放・自由」とも訳されます。
ヴェーダによれば、人間の求めるゴールには「アルタ(安心・安全)、カーマ(喜び)、ダルマ(調和)、モークシャ(自由)」の4つがあると言われます。
さまざまな人が、さまざまなゴールを求めているように見えますが、人が求めているものはこの4つに集約されます。

アルタは「これがあったら私は安心」と思う物のことです。
ある人にとっては、結婚がアルタですし、別の人にとってはお金や健康がアルタかもしれません。
どんなものであれ、「それがあったら私は安心」とその人が思う物がアルタです。
しかし、その人が本当に求めている物は、アルタ(安心)なのでしょうか?
「お金があったら私は安心」と思っている不安な人がたくさんのお金を得ても、その人は「安心な人」になることはなく、「お金を得た不安な人」になるだけです。
ですので、「もっとお金を得なきゃ」「失わないようにしなきゃ」となったり、他の物に安心を求めて追い求めたりすることになります。
その人が本当に求めているものは、外から得られる「安心」ではなく、「不安であることからの自由」であるからです。

カーマについても同様です。
「これがあったら私は幸せ」と思う物がカーマですが、何を得たとしても喜びの体験は束の間です。
「〇〇があったら私は幸せ」という結論があるということは、「それがなかったら私は幸せではない」ということですので、その人が持つ結論は「私は幸せに足りていない人」です。
アルタと同様、その人が本当に求めているものは、「不幸せであることからの自由」なのです。

ダルマにはたくさんの意味がありますが、語源的な意味は「支えるもの」がダルマです。
この宇宙全体を支えている法則・秩序のことをダルマと言います。
そして、個人の視点からは、その全体の法則・秩序と調和することもダルマと呼ばれます。
このダルマはその人の心の成長や相対的な自己受容を叶えてくれる、とても大切なゴールですが、ダルマでさえ、完全な自己受容を叶えることはできません。

ヴェーダーンタは、たとえアルタ・カーマやダルマを求めていても、その人が本当に求めているものはモークシャ、自由だと言います。
モークシャとは、"Freedom from the sense of limitation(制限の感覚からの自由)"だとスワミ ダヤーナンダジは定義されています。
「私は安心ではない」「私は幸せに足りていない」というのは、「私は限られた人だ」という制限の感覚です。
その制限の感覚からの自由が、知ろうと知るまいと、誰もが求めているものです。
では、そのモークシャはどのように叶うのでしょうか?

ダルマ、アルタ、カーマはすべて、「行いで叶うゴール」であり、行いで叶うゴールはどんなものであれ、一時的で限りがあります。
限りのある行いで、限りの無いゴールを叶えることはできません。
つまり、モークシャは行いによって叶うゴールではないのです。

モークシャは、「すでに限りの無い自分自身」を知ることによってのみ叶うとヴェーダーンタは教えます。
つまり、それは純粋に知ること、知識によって叶うゴールなのです。

自分がその人であることを知らずに、いなくなった10人目の男を探している人のように、私たちは「すでにそれである自分自身」を知らずに、安心や幸せを外側から得られるものと思い込み、行いをし続けています。
その無知を解消することができるのは、知識だけです。

「私とは何か」の知識は、瞑想やヨーガを含む、行いによって得られるものではありません。
あらゆる対象を見る「目」が、見る主体である目自身を見ることはできないように、主体である「私自身の知識」を明かすには特別な知識の道具(プラマーナ)が必要です。
それは「聖典(ヴェーダーンタ)の言葉」であり、ヴェーダーンタの教える「自分自身(ブランマン)の知識」によってのみ得られます。
それゆえ伝統的に、ヴェーダーンタは、「私とは何か」を知るための唯一の知識の道具(プラマーナ)とみなされます。

ヴェーダーンタがプラマーナ、つまり「知識を起こす道具」として働くためには、聖典原典に加えて、解説書(シャンカラ・バーシャ)と、教えの伝統の中にいる先生が必要と言われます。
これについては、次の記事でお伝えさせて頂きます。

”Veda”(ヴェーダ)とは、サンスクリット語で「知る手段・知識の集合体」という意味の言葉です。

聖典という形で、オリジナルの教えがそれを伝える方法論や先生の伝統と共に、途絶えることなく伝わってきています。

ヴェーダは現在のインドに残る教えですが、その教えの本質はインドに固有のものではなく、時代や場所を超えて普遍の、人間が幸せに生きるための知識です。

その教えは、「サナータナ・ダルマ(永遠のダルマ)」と呼ばれ、かつては地球上のあらゆる文化に同じ教えがあったと言われます。


ヴェーダの教える宇宙観では、この宇宙全体がひとつの生命だと言われます。

そのたったひとつの生命、宇宙全体として生きる人が「イーシュワラ(司る者)」と呼ばれます。

すべての波は海から離れて存在していないように、この宇宙に生きとし生けるものは、全体イーシュワラの中に運ばれ、生かされています。

宇宙全体を支える法則として現れたイーシュワラは、「ダルマ(の法則)」と呼ばれます。


人は誰でも、幸せを求めて何かを得ようとしたり、何かになろうとしています。

けれど、何を得たとしても、「ダルマ」と呼ばれる宇宙の秩序・法則、つまりイーシュワラとの調和なしに安心や喜びは束の間です。

ヴェーダはまずその前半部分(カルマ・カーンダ=行いの章)で、「アヒムサー(傷つけないこと)」に代表されるダルマの価値や、ダルマと調和する生き方を私たちに教えます。

家庭や社会での日々の役割を通して、ダルマとの調和、イーシュワラとのハーモニーを選ぶ練習をし、心を成長させていく生き方のことを、「ヨーガ」と言います。


ヨーガの生き方は私たちに、全体の調和の中に生かされる安心感と共に、健全な自己尊厳と、混乱のないきれいな考えをもたらします。

誰もが本当に求めている人生のたった一つのゴール、「モークシャ」と呼ばれる自由は、行いの結果ではなく、「私とは何か」という、聖典ヴェーダが最後に教える知識によってかなう自由です。

その知識は、ヨーガの生き方で整ったヨーギーのきれいな考えに輝きます。

その考えは、いつでも全体イーシュワラを想える価値構造の整った考えです。

ヨーガは、モークシャのための心の成熟をもたらす準備であり、これまでの人生で身に付けてきた偏見・主観を手放し身軽になってゆく、喜びに満ちた生き方です。


「私はいったい何をしたいんだろう?」
「私はどこに向かっているのだろう?」
「私とは、何だろう?」


「私がある」ことは、誰に教えてもらう必要もなくそれ自身で明らかです。

けれど、その「私とは何か」が私に正しく知られていないため、心や体など「私でないもの」を私としてしまうことから、妄想や悲しみなど、あらゆる問題が生まれます。

自分自身の真実の探究がスピリチュアルな生き方です。

ヴェーダの明かす宇宙観、そしてモークシャをゴールとする、人間としての成熟のためのヨーガという生き方を学んでみませんか。


「パラムパラー」と呼ばれる教えの伝統の中で、先生から学んだ先生たちが残してくれたテキストを一緒に読みながら、少しずつヴェーダ、ヴェーダーンタの宇宙観をお伝えしていきます。