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聖典ヴェーダの結論部分が、ヴェーダの終わり(アンタ)、ヴェーダーンタと呼ばれます。
この部分は、別名『ウパニシャッド』とも呼ばれます。

前半のヴェーダが『カルマ・カーンダ(行いの章)』と呼ばれるのに対して、後半のヴェーダ、つまりヴェーダーンタは『ニャーナ・カーンダ(知識の章)』と呼ばれます。
前半・後半とは言いますが、ヴェーダの99%は前半のカルマ・カーンダ、つまり「行いと行いの結果」について教えています。
ヴェーダ全体の1%にも満たない、その部分がヴェーダーンタ(ウパニシャッド)です。

では、ヴェーダーンタの教える「知識」とは何でしょうか?
それは「モークシャの知識(ブランマンの知識)」です。

モークシャとは人間の究極のゴールであり、「解放・自由」とも訳されます。
ヴェーダによれば、人間の求めるゴールには「アルタ(安心・安全)、カーマ(喜び)、ダルマ(調和)、モークシャ(自由)」の4つがあると言われます。
さまざまな人が、さまざまなゴールを求めているように見えますが、人が求めているものはこの4つに集約されます。

アルタは「これがあったら私は安心」と思う物のことです。
ある人にとっては、結婚がアルタですし、別の人にとってはお金や健康がアルタかもしれません。
どんなものであれ、「それがあったら私は安心」とその人が思う物がアルタです。
しかし、その人が本当に求めている物は、アルタ(安心)なのでしょうか?
「お金があったら私は安心」と思っている不安な人がたくさんのお金を得ても、その人は「安心な人」になることはなく、「お金を得た不安な人」になるだけです。
ですので、「もっとお金を得なきゃ」「失わないようにしなきゃ」となったり、他の物に安心を求めて追い求めたりすることになります。
その人が本当に求めているものは、外から得られる「安心」ではなく、「不安であることからの自由」であるからです。

カーマについても同様です。
「これがあったら私は幸せ」と思う物がカーマですが、何を得たとしても喜びの体験は束の間です。
「〇〇があったら私は幸せ」という結論があるということは、「それがなかったら私は幸せではない」ということですので、その人が持つ結論は「私は幸せに足りていない人」です。
アルタと同様、その人が本当に求めているものは、「不幸せであることからの自由」なのです。

ダルマにはたくさんの意味がありますが、語源的な意味は「支えるもの」がダルマです。
この宇宙全体を支えている法則・秩序のことをダルマと言います。
そして、個人の視点からは、その全体の法則・秩序と調和することもダルマと呼ばれます。
このダルマはその人の心の成長や相対的な自己受容を叶えてくれる、とても大切なゴールですが、ダルマでさえ、完全な自己受容を叶えることはできません。

ヴェーダーンタは、たとえアルタ・カーマやダルマを求めていても、その人が本当に求めているものはモークシャ、自由だと言います。
モークシャとは、"Freedom from the sense of limitation(制限の感覚からの自由)"だとスワミ ダヤーナンダジは定義されています。
「私は安心ではない」「私は幸せに足りていない」というのは、「私は限られた人だ」という制限の感覚です。
その制限の感覚からの自由が、知ろうと知るまいと、誰もが求めているものです。
では、そのモークシャはどのように叶うのでしょうか?

ダルマ、アルタ、カーマはすべて、「行いで叶うゴール」であり、行いで叶うゴールはどんなものであれ、一時的で限りがあります。
限りのある行いで、限りの無いゴールを叶えることはできません。
つまり、モークシャは行いによって叶うゴールではないのです。

モークシャは、「すでに限りの無い自分自身」を知ることによってのみ叶うとヴェーダーンタは教えます。
つまり、それは純粋に知ること、知識によって叶うゴールなのです。

自分がその人であることを知らずに、いなくなった10人目の男を探している人のように、私たちは「すでにそれである自分自身」を知らずに、安心や幸せを外側から得られるものと思い込み、行いをし続けています。
その無知を解消することができるのは、知識だけです。

「私とは何か」の知識は、瞑想やヨーガを含む、行いによって得られるものではありません。
あらゆる対象を見る「目」が、見る主体である目自身を見ることはできないように、主体である「私自身の知識」を明かすには特別な知識の道具(プラマーナ)が必要です。
それは「聖典(ヴェーダーンタ)の言葉」であり、ヴェーダーンタの教える「自分自身(ブランマン)の知識」によってのみ得られます。
それゆえ伝統的に、ヴェーダーンタは、「私とは何か」を知るための唯一の知識の道具(プラマーナ)とみなされます。

ヴェーダーンタがプラマーナ、つまり「知識を起こす道具」として働くためには、聖典原典に加えて、解説書(シャンカラ・バーシャ)と、教えの伝統の中にいる先生が必要と言われます。
これについては、次の記事でお伝えさせて頂きます。